パラスポーツ・パラアスリートの支え手の方々からのメッセージ ~陸上競技~


 陸上競技義肢装具士・メカニックをされている臼井二美男(うすいふみお)さん支え手としての役割、パラスポーツやパラアスリートの魅力などをお伺いしました。
 陸上競技を支える方、陸上競技、選手を知って、みんなで応援しましょう。

★陸上競技
 臼井二美男(うすいふみお)さん
 (義肢装具士・メカニック)          











<プロフィール>
義肢装具サポートセンター 義肢装具研究室長・義肢装具士 1955年生まれ。大学中退後、28歳のとき、公益財団法人鉄道弘済会 義肢装具サポートセンターの前身となる東京身体障害者福祉センターに就職。89年、日本で初めてとなるスポーツ義肢の製作を開始し、91年には切断障害者陸上クラブ「スタートラインTokyo」を創設、代表を務める。2000年のシドニー・パラリンピック以降、日本代表選手のメカニックとして同行し、16年のリオデジャネイロ・パラリンピックでも選手たちを支える。

義肢装具士となったきっかけを教えてください。

 大学を中退し28歳までフリーターで、トラックの運転手やバーテンダー、露天商など色々な仕事をやってきましたが、なかなかこれだというのはありませんでした。ある時、職業安定所に行った帰りに、職業訓練校があって、そこに「義肢科」とあるのが目に留まりました。義肢という漢字をみて、小学校6年の時、クラス担任の先生が足に腫瘍ができて入院し、義足となって戻ってきたのを思い出しました。50年前なので、重たい木と皮の義足だったと思います。硬いんだよと触らせてくれた感覚が何となくよみがえってきて、興味をもって職業訓練校に入っていきました。ちょうど休みの日でしたが部長さんがいて、ぜひ入学しなさいと言われその場で手続きをしました。
 翌日、実際に働く場も見てみようと思い、鉄道弘済会の義肢製作所に行ってみました。その頃は、足に障がいがある方が半分くらい技術者として働いていました。明日もう一回来れますかと課長さんに言われ、次の日に行ったら君を見習いで採用したい、職業訓練校には私の方から丁重に話しておくからと言われ、それならばと、鉄道弘済会に入る約束をしました。
 経験も医学的な知識もなかったのですが、大抵のことは一生懸命やれば大丈夫だと思ってやっているうちに、見習いから正社員になりました。5年経って33歳の時に国家試験制度ができ、みんなで勉強会をして試験に受かりました。
 この世界に入って、最初に感じたのが1日が経つのが早いということです。それまでは仕事に慣れてくると、このままこの仕事で良いのかと自分の将来を思ったり、もっと自分に向いている仕事があるのではないかと考えたりしていましたが、義肢製作所で働くようになってそれがなくなりました。あれから35年が経ちましたが、仕事を辞めたいと思ったことはありません。モノづくりをして、患者さん対応をして、うまくいかないときは作り直しをして、頭を使うし気も使うし、やるべきことがすごく多い。大変な部分もあるけれど充実感があって、自分自身にとっては健康的かなと(笑)。モノを作るだけでなく、コミュニケーションをうまく取って、使う人の性格だったり、夢だったり、希望だったり、その人の個性を理解して織り込まないと完成しないものです。

パラスポーツに関わることになったきっかけを教えてください。

 入社して5年目くらいの時に、ハネムーンでハワイに行ったんです。せっかくだから義肢製作所を見てみたいと思って、電話帳で調べて一番近いところに電話して、片言の英語で見学していいかと聞いたらOKと言われました。そこで、君はこれ見たことあるかと、アメリカで発売されたばかりのカーボンファイバー製の板状の足部を見せられて、これがあると野球やサッカーなどスポーツをやって走っても壊れないのだと。これはすごいと思って、日本に帰ってぜひうちも仕入れてみたいと職場に掛け合って、当時で25万円もするものを1個買ってもらいました。
 最初に、職場の近くに住んでいた元気な義足の女の子にそれを着けてもらいました。中学生で義足になり10年間、走るという動作がなかった子でしたが、自分が横について走る練習をしたら短時間で5、6歩くらい走れて、その時彼女が泣き出したんです。足を交互にして走るのはもう一生できないと思っていたけれど、足があった時の感じで走ることができて思わず泣いてしまったと。そうした人が2人、3人、そして4人になり、みんなすごく感動するんです。中には20年以上走るなんて自分にはありえないと思っていた人が走れた時の感動!そんな姿を見てやめられなくなりました。
 それから10年くらい経った頃に、鈴木徹選手(現パラ陸上・走り高跳び選手)が訪ねてきました。事故で義足になったけれど、臼井さんのところに行けばもう一度スポーツで復活できるのではないかと。谷真海選手(現パラトライアスロン選手)も来ましたね。病気で切断した人は、スポーツで免疫力を上げたいというのもあるんです。
 ほかに、義肢をつけた人たちのファッションショーにも携わっています。義肢装具サポートセンターにいらっしゃる方の中にはスポーツが苦手な人、スポーツができないと思っている人がまだまだいます。ショーに出てくれないかと誘っています。自分をさらけ出して自分の体に自信を持ってもらいたいと思っています。

(写真提供 臼井二美男さん(写真向かって右側) 
シドニー2000パラリンピック競技大会にて鈴木徹選手(写真向かって左側)と)

メカニックとしての活動をお聞かせください。

 義肢メカニックとして、義足の選手が多く故障率も高いパラ陸上付で大会に帯同します。現地では、選手に付いて毎日練習トラックに行きます。何人もの選手を見るので、一日中帰れないこともあります。練習トラックは大好きで、海外選手の義足を目の当たりにできます。少しでも競技性を高めるために、プラスアルファで自分たちで工夫しているのが現場に行くと見て取れて刺激を受けています。

義足の競技の魅力を教えてください。

 義足を使う競技では、義足のカーボンの板が本来の人間の能力以上の機能があるのではないかと言われたりすることがありますが、それは違うと思います。いくら板バネの性能が良くても、使う人の能力とマッチングしないと記録はでません。やはり基本は、選手それぞれの人間の能力であって、板バネの力ではありません。そこを見てほしいなと思います。

選手との思い出のエピソードをお聞かせください。

 パラリンピックの舞台はとにかく独特の世界があります。シドニー大会で鈴木徹選手が初めて自分が作った義足のブレードでメインスタジアムに立っているのを見た時、鳥肌が立ちました。何とも言えない達成感でしたね。今までになかった義足の姿があって。それに鈴木選手がこれまでいろいろ苦労してきたのを知っていたから。本人は緊張でドキドキだったと思いますが(笑)。
 もう一つ、確か北京大会の時だったと思いますが、練習トラックで外国人の両足義足の選手が走っていました。そこを世間話をしている3人くらいが気付かずに横切ろうとしていたんですが、何とパッパッパッとうまくかわして楽しそうに走り過ぎていきました。それを中西麻耶選手(パラ陸上・走り幅跳び等)に話したら、日本人だったら走るのをやめて止まってたよねと。そしたら、次の日に麻耶選手の100m予選があったんですが、前にいた選手が躓いて3人転んでしまい、麻耶選手はそれをポンポンポンとよけてそのまま止まらずに走り切ったんです。前の日の話を覚えていたかどうかは分かりませんが。重要なのは、何があっても人のせいにせず、最後までちゃんと走り切るということです。

パラリンピック・パラスポーツに対する思いをお聞かせください。

 パラリンピックは、障がい者理解を進める上でいい機会だと思っています。イギリスはパラリンピックの歴史も知っていて国全体でパラリンピックを楽しんでいましたが、日本も似たところがあって、細かく選手などの情報も発信されるし、知ろうという意識が強いからイギリスに負けないくらいの大会にできると思います。これから高齢化が進む中で、障がい者に限らず高齢者などへの対応も求められてきます。そこでは、やはり子供のときの経験が重要で、パラ教育の果たす役割も大きいのではないでしょうか。
 そして、子供の能力は無限大です。義務教育でスポーツ義足を使えるのなら使わせてあげたいし、どの子にも走れるチャンスや喜びを与えられたらいいなと思っています。たった半年、1年ですごく変わります。障がい者スポーツがもっている魅力、効能は大きいです。


(令和2年10月 東京都オリンピック・パラリンピック準備局パラリンピック部調整課インタビュー)