パラスポーツ・パラアスリートの支え手の方々からのメッセージ ~パラ・パワーリフティング~

 
 パラ・パワーリフティング
コーチをされている吉田進(よしだすすむ)さん、吉田寿子(よしだひさこ)さん支え手としての役割、パラスポーツやパラアスリートの魅力などをお伺いしました。パラ・パワーリフティングを支える方、競技、選手を知って、みんなで応援しましょう。


★パラ・パワーリフティング
 
吉田進(よしだすすむ)さん、吉田寿子(よしだひさこ)さん
(コーチ

<プロフィール>
●吉田進さん
1950年9月26日生まれ。都立立川高校、京都大学と水泳選手。大学時代コーチがいない水泳部でいかにして早くするかでウェイトトレーニングに取りつかれる。大学卒業後本格的にパワーリフティングに取り組み全日本パワーリフティング選手権5回優勝。1980年に世界選手権日本代表としてアメリカへ渡り、当時のアメリカのトレーニング方法に目が開く。1984年妻の吉田寿子と府中市で「パワーハウス・ウェイトトレーニングクラブ」をスタート。2000~2015年は国際パワーリフティング連盟常任理事、アジアパワーリフティング連盟会長。2000年からは日本パラパワーリフティング連盟理事長、社団法人日本ボディビル連盟副会長。株式会社パワーハウス代表取締役社長
●吉田寿子さん
1951年7月13日生まれ。京都教育大付属高校卒、京都大学薬学部卒。中学、高校、大学と水泳選手。産後のフィットネスの為にパワーリフティングを始める。第一回女子全日本パワーリフティング選手権大会優勝皮切りに、10回以上の優勝。1988年に世界選手権(ベルギー、ブリュッセル)44kg級で優勝。1984年夫の吉田進と府中市で「パワーハウス・ウェイトトレーニングクラブ」をスタート。1999年パラパワーリフティング連盟発足時のメンバー、現在に至る。

コーチに携わることになったきっかけを教えてください。

 パワーリフティングは、1964年の東京大会からパラリンピックで行われるようになり、当時は、「ウエイトリフティング」という名前でベンチプレス競技を行っていました。「パワーリフティング」という名称が使われるようになったのは、1992年のソウル大会からです。
 我々は元々、パワーリフティング(健常)の選手でした。当時、車いすの方でたまたまベンチプレスが強い人がいて、その方を健常者の国際大会に連れていっていました。その頃は、健常者の国際連盟も車いすや杖をついている人の参加を認めていて、我々はそもそもパラリンピックの種目にもなっていることを知りませんでした。ところが、その国際連盟もだんだん大きくなり、1990年代には、車いすの方など障害を持っている人の参加が認められなくなりました。
 車いすでも生きがいを持っていた選手をどうしようかと考えていたところ、彼らがパラリンピックの種目にも入っていますよと教えてくれ、事務局長(寿子さん)が色々探して、日本障害者スポーツ協会に相談に行ったら、まずそこに登録することと、一つの連盟として独立するよう言われました。そこで、パラリンピックに出場できるよう、1999年にパラ・パワーリフティング連盟を設立しました。二人とも健常者の連盟にも所属していましたが、事務局長の比重は障がい者の方にあって、事務局長は日本のパラパワーを初期の段階から作り上げてきた原動力だと言えます。当初は数名しか選手はいませんでしたが、東京パラリンピックが決まり注目度が上がってからはどんどん増えて、今は実質80名を超えています。
 海外は50年以上の歴史があり、トレーニングのノウハウとか、10~30年かけて強くなる選手がいたりと、非常にレベルが高いです。日本ははるか遅れており、パラリンピックに何人も送れるほどまだレベルは高くありませんが、リオ大会では三浦浩選手(男子49kg級)が5位に入賞するなど、じわじわと伸びてきています。最近は若い人が良い感じで伸び始めており、パラリンピックに手が届くには7、8年かかると言われていますが、5年くらいで、もうちょっと頑張ればいけるくらいに育ってきています。
 ちなみに、このパワーハウス(お二人が運営されている練習ジム)は、現役のときに練習場所が欲しくて1984年に作りました。その後場所は転々として、ここ(調布市)が4か所目です。当時、パワーリフティングも徐々に知られつつありましたが、東京ではパワーリフティングを本格的にできるジムが他になかったので、強くなりたい人が結構集まってきました。最近は健康管理的な人も増えてきていますが、基本的には、選手育成に特化したジムです。

パラ・パワーリフティングの魅力を教えてください。

 競技としての魅力は極限の筋力です。自分の与えられた体重クラスでどこまで筋肉を大きくして力をつけるかという、まさに体の肉体改造です。また、陸上や水泳でもっと早くなりたいというのと同じで、記録スポーツなので、バーベルを上げる記録をもっと伸ばしたい、少しでも自分を高めたいという思いにつながります。強さにあこがれる人の究極のスポーツと言えます。
 この競技は、車いすの選手の割合が8割以上なんですが、車いすで生活していると腕力がものすごく大事で、ちょっとしたスロープの昇りも、段差を乗り越えるのも、車への乗り降りも腕力をすごく使います。この競技につくと、車いす生活、日常生活が楽になります。
 また、スタミナの必要な競技ではないので、プログラムを地道にコツコツやれる人は年齢に関係なく、40歳でも50歳でも記録が伸びていきます。40歳から筋力がついてくるのは普通信じられませんがどんどんついていきます。50歳代でも記録を伸ばしている人もいます。登録している一番若い選手は15歳、最年長選手は60歳です。50歳超えても、まだまだ全日本トップを張れます。
 重いバーベルを上げるには、相当集中しないといけないので、集中力がつくところもあります。この競技を長くやっていると、仕事をやっているときの集中力が上がるらしいです。

選手との思い出のエピソードをお聞かせください。

 印象に残っていることと言えば、例えば、現在高校生の森崎可林選手(女子67kg級)との出会いですね。彼女との出会いは、アスリート発掘プロジェクトでした。当時中学生だった彼女は、元々水泳がやりたくて参加していたのですが、彼女を見て、勘ですが何かいけそうな雰囲気を感じました。そこで、ベンチプレスの体験ができるよと進めたんですが、最初は来てくれませんでした。1時間くらい経っても来ないので、もう1回誘ってみたら、しばらくしてお父さんとお母さんと3人で来てくれて、20kgはホイホイと、25kgも何回か上げて、30kgは結構必死で傾きながらも頑張って上げました。ちょっと頑張らせたから嫌になったかなと思ったら、そこからガバっと起き上がって「ああ気持ちいい」と。これは間違いないと思い(笑)、そこから強烈にアピールしたら水泳と迷いながらもこっちに来てくれました。その後は順調に成長を見せています。
 それから、この3月に急逝した107kg超級の世界記録保持者、シアマンド・ラーマン選手。イランのパラリンピック委員会がとても大事にしていて、まさにイランの宝でした。以前、日本に招待した時に、ラーマン選手の練習内容を何とか聞き出そうとしたのですが、彼に聞こうとするとすぐにコーチを見て、コーチは「NO」という素振りをする。こうして、聞けずじまい。その後世界選手権などで会うたびにアタックしていたんですが、ある時、彼がやってきて、耳打ちするように「進がイランに来てくれたら、全部自分の練習見せるから」と。東京パラリンピックが終わったら会いに行こうと思っていた矢先、彼は亡くなりました。本当に突然のことで、悲しいというか残念というか。

パラリンピック・パラスポーツに対する思いをお聞かせください。

 パラリンピックをきっかけにもっとバリアフリーが進んだらいいと思います。かつて、大堂秀樹選手(男子88kg級)が試合でニュージーランドに行ったときに、「世の中ってこんなに自由に動けるんだ」と話していたのが印象的です。そこでは、エレベーターは乗れる、ホテルの部屋のお風呂もトイレも入れる、買い物に行くのも簡単だと。東京パラリンピックを契機に、日本もだんだん良くなってきていますが、例えばホテルでもバリアフリーの部屋が少なかったり、大きい車いすだとトイレに入れなかったりすることがあるので、そういう部分がもっと変わっていったらと思います。
 ここ数年、小学校で特別授業を実施しているのですが、特に低学年の子供たちは、障がい者と健常者を区別しません。選手との質疑応答では、「どうしてケガしちゃったの」とか遠慮なく鋭い質問をバンバンします。選手も喜んで「自分はこういうことをしてこうなった」と話します。また、ベンチプレス体験をさせると喜んでやります。一人1回だよと言っても終わったらすぐ後ろの列に2回でも3回でも並びます。小学校高学年になると多少遠慮が出て、中学生になると遠慮の塊です。小学校低学年の「みんな一緒だよ」という気持ちをそのまま育ててあげれば、日本はすごく良くなると思います。


(令和2年9月 東京都オリンピック・パラリンピック準備局パラリンピック部調整課インタビュー)