パラスポーツ・パラアスリートの支え手の方々からのメッセージ ~シッティングバレーボール~


 シッティングバレーボール全日本女子監督、日本パラバレーボール協会代表理事(会長)をされている真野嘉久(まのよしひさ)さん支え手としての役割、パラスポーツやパラアスリートの魅力などをお伺いしました。
 シッティングバレーボールを支える方、競技、選手を知って、みんなで応援しましょう。

★シッティングバレーボール
 真野嘉久(まのよしひさ)さん
 (全日本女子監督、日本パラバレーボール協会代表理事(会長))

(写真提供 日本パラバレーボール協会)

<プロフィール>
1965年生まれ、東海大学体育学部卒業、一般社団法人日本パラバレーボール協会代表理事
2000年シドニーパラリンピック男子監督
2004年アテネパラリンピック男子監督
2008年北京パラリンピック女子監督
2012年ロンドンパラリンピック女子監督
現在も全日本シッティングバレーボール女子チーム監督

シッティングバレーボールに携わることになったきっかけ、活動内容について教えてください。

 私は、子供の頃から剣道をやっていましたが、中学校では剣道部がなく、ちょうどバレーボール部の先輩から「1年生でも入ればすぐにレギュラーになれるよ」と誘われたこともあり、剣道の同好会を作って活動しながらバレーボール部に入ることにしました。高校でも、先輩から「今部員が少ないからレギュラーになれるよ」と誘われて、そのままバレーボールを続けました。
 元々、バレーボール選手としては身長が低いほうでしたが、剣道で足腰を鍛えていたこともあり、垂直跳びで当時110cmほど跳べるジャンプ力でそれをカバーしていました。千葉県で、ベスト8が最高の成績で終わり、春高バレーには出場できなかったのですが、たまたま東海大学の推薦枠で入学でき、当時の東海大学のバレーボールの監督が全日本の監督でもあったため、もしかするとその時に、自分の中でバレーボール選手としてオリンピックを目指すという夢が生まれたのかなと思います。
 大学では180cm以上のセッターの先輩がいましたが、跳躍の到達点は私の方が高かったので、正セッターになれるかもしれないという淡い期待を抱き始めましたが、大学1年の後期に親指をケガしてしまい、それが原因でバレーボールをやめざるを得なくなってしまいました。

 大学卒業後、OA機器メーカーでサラリーマンとして働いていた時に、仕事の関係で関わることになったテレビ番組の制作会社の事務員の方の障がいがあるお兄さんに出会ったご縁で、シッティングバレーボールの練習を観に行くことになりました。当時、シッティングバレーボール自体を全く知らなかったのですが、障害者スポーツセンターで行われているバレーボール競技であるということを知り、衝撃を受けました。バレーボールは、大学でケガをしてやめてからしばらくやっておらず、また当時、食べ過ぎによりジャンプ力も落ちていたのですが、座ってバレーボールができるということから、自分でも実際にやってみることにしました。私自身、夢の途中でバレーボールをやめたことによる挫折感のようなものがどこかにあったのですが、社会人になってから10年後にシッティングバレーボールに出会い、選手たちが義足を外してプレーしている姿を見てすごいと思いましたし、実際にプレーをするととても楽しく、一瞬にしてシッティングバレーボールにはまりました。
 ただ、周りを見ると、指導者や若い選手たちにバレーボールの経験者が少なく、バレーボールの理論を知らない状況の中でひたすらボールを追いかけているという感じだったので、本当のバレーボールを伝えたくて、何かお手伝いができればと思いました。当時、齊藤洋子選手(北京・ロンドンパラリンピック日本代表)が、複数のバレーボール実業団に向けて、障がい者のバレーボールを教えてほしいと手紙を送っており、その手紙に共感された方に、当時イトーヨーカドーのバレーボールの監督をされていた遠藤祐亮さんがいらっしゃったのですが、遠藤監督ご自身が多忙であったため、「代わりに真野がやれ」と言われ、大先輩からの依頼ということもあり引き受けることにしました。
 そこで、サラリーマンを辞めて自分の会社を立ち上げ、時間的にフリーな状態を作り、火曜日と木曜日の夕方に練習に参加するようになったのが、本格的にシッティングバレーボールに携わることになったきっかけです。まさに偶然の出会いが重なったという感じです。


 (写真提供 日本パラバレーボール協会

 1992年のバルセロナパラリンピックに水泳で出場した竹田賢仁(たけだ よしひと)選手(現・日本パラバレーボール協会副会長)は、現地でシッティングバレーボールを初めて観て知って、国内で活動を始めました。2000年にはシドニーパラリンピックの開催が決まっており、男子の選手から出場したいという要望があったのですが、パラリンピックに出場するためには中央競技団体を作らなければならなかったため、1997年4月にみなし法人として「日本シッティングバレーボール協会」(2014年4月に一般社団法人「日本パラバレーボール協会」に組織変更)を設立しました。
 私は、1998年の世界選手権では監督のサポート役として、1999年のシドニーパラリンピックアジア予選会ではコーチとして参加し、そこで優勝してシドニーの切符を勝ち取りました。その後、当時の監督が家庭の事情で続けられなくなったため、代わって私が監督に着任してから現在まで続けています。2004年のアテネパラリンピックでは、残念ながら女子は予選

敗退し、男子のみ出場することができました。なお、当時は男女チームの監督を兼任していましたが、それ以降は、男子チームに新たな監督が就任したので、北京パラリンピックから、現在に至るまで女子チームの監督をしています。
 2002年から2014年まではおでん屋を経営していたのですが、2014年にスポンサーになっていただけるという企業が現れ、競技団体を社団法人化する必要が生じたことから、おでん屋をやめて、シッティングバレーボール一本で活動することとなりました。
 昨年4月、5月は、コロナの影響で合宿ができず、自宅等でできる練習メニューを選手たちに与えており、6月にやっと集まることができました。合宿ができなかった2か月の間、与えていたトレーニングメニューをまともに取り組む選手はいるのだろうか、体力は落ちているのではないかと思っていたのですが、実際には、選手の9割方の身体が出来上がっていたのです。その時は選手のことを信じていなかった自分を恥じ、頭を下げて謝りました。
 現在は、スポーツ庁が認めるNTC競技強化拠点がある姫路を中心に活動をしており、3月までに24回の合宿を計画していたのですが、感染防止による移動の問題もあったため、現在まだわずか7回目の合宿をしている状況です。選手にとってかわいそうな環境にあることから、できる限りLINE等で連絡を取り合い、指導をしています。また、週1回は必ず健康報告の場を一人ひとり設け、問題解決に努めています。

シッティングバレーボールの魅力を教えてください。

 まずは、好きな選手を見つけて、その人をよく知ってほしいなと思います。どのスポーツでも言えることだと思いますが、出場している選手を知って、理解して、友達になって、その知っている選手が出ている試合を応援する、そうすることで観戦が楽しくなると思います。私自身、あまりスポーツを観たりしないのですが、友達が出ているキックボクシングの試合は、ルールは分からないながらも、やはり観ていてすごく楽しいです。最近はパラスポーツを学校の授業等で取り入れる機会が多くなっており、シッティングバレーボールにおいては、大会本番の競技会場近辺の小学校を対象に、現役選手を連れて行き、顔と名前を覚えてもらい友達になってもらうという活動を3年前から行っています。
 シッティングバレーボールとバレーボールとでは、座ってプレーするかどうかの違い(お尻が浮いたら反則)以外は同じようなルールなので、観ていて全くルールが分からないということはなく、観戦していただくとすごく面白いと思います。
 また、シッティングバレーボールの何よりの魅力は、健常者や障がいのある方、子供からご高齢の方まで、誰もができるところだと思っています。そのため、シッティングバレーボールは一生涯のスポーツ、まさに「生涯スポーツ」になると24年間ずっと思っています。コートを少し狭くしたり、通常よりも柔らかいボールを使ったりした形でのプレーも有り得ると思っており、やり方次第で色々な工夫ができるスポーツです。例えば、おじいちゃんやおばあちゃん世代と、お父さんやお母さん世代、そして孫世代がコートに入って、3対3でプレーすることもできます。
 さらに、シッティングバレーボールは、芸術点のようなものがないので、選手たちがそれぞれ自分の一番良い形を編み出しながら、みんなでボールをつなげてスパイクまで持っていく、どのような形でボールを拾ったとしてもそれをスパイクまで繋げて決めることができれば、その繋がりで点数が取れるという、みんなで助け合えるスポーツでもあり、とても人間味があると思います。唯一サーブは自分一人でしか行えないので、一人で行う競技とみんなで行う競技が合わさっている点も魅力的です。それから、時間制ではないので、同点のまま終わるということがなく、必ず勝ち負けが決まります。これもスポーツの醍醐味だなと思います。





(写真提供 日本パラバレーボール協会

選手との思い出のエピソードをお聞かせください。

 2007年に上海で開催された、北京パラリンピックの出場枠をかけた大会での女子チームの試合が思い出に残っています。開催国枠として中国の出場は決まっており、イランか日本のどちらかが出場枠を獲得できる状況でした。その時は、おでん屋もやっていたのですが、北京パラリンピック出場が決まったら、おでん屋を閉めようと思っていました。
 当時は、イランの方が日本よりも少し強く、1セット目を取られ、そのまま負けてしまうかなと思ったのですが、2セット目を取り返し、「よし、おでん屋をやめるぞ」と思ったら、3セット目はまた相手に取られてしまい、「やはりおでん屋を続けるか」となりました。ところが、4セット目は奇跡的に取れて、フルセットの5セット目では最初2対8くらいで負けていたのですが、コートチェンジを機に大逆転して勝利し、北京パラリンピック出場を勝ち取りました。その瞬間は、過呼吸になりそうなくらい嬉しかったです。ものすごく嬉しくて選手に抱きつこうとしたのですが、選手たちは私のことには目もくれず、選手間で抱き合って喜びを分かち合っていたことが印象に残っています。
 私がここまでシッティングバレーボールに関わり続けてきているのには、2つのことがあります。1つは、ある有名野球選手のスポンサー企業に勤めていた後輩を練習の場に連れてきた時のことです。彼は、私と選手たちに「今度、選手のバッドやグローブを持ってきてあげます」と約束したのですが、その後来ることはありませんでした。ある選手から「あの人来ないのかな」とつぶやかれ、「仕事が忙しくて来られなくなっちゃった」と返答したところ、「バッドやグローブの話はどうなったのかな」と問われたので、連絡が取れていないことを正直に伝えると、選手たちから「嘘は良くない、言ったことは守らないと」と言われてしまいました。それから選手たちには決して嘘をつかず、言ったことは意地でも守るようにしています。2つ目は、シッティングバレーボールの「カタチ」をある程度作って、後世へつなげていきたいという思いです。今はその準備を着々と進めているところであり、みんなの前でやると宣言しているので、こちらも嘘にならないように頑張っていきたいと思っています。



(写真提供 日本パラバレーボール協会

パラリンピック・パラスポーツへの思いをお聞かせください。

 東京2020大会は開催してほしいですし、選手たちもそれを望んでいると思います。ただ、その前提として、皆さまの理解が必要だと思っているので、自分自身、理解していただけるような行動を取るように心掛けていますし、選手にもそれを促しています。多くの方に応援してもらって開催を迎えたいですし、私たちが開催する意味を発信していければと思っています。そして、パラリンピックが開催されれば、シッティングバレーボールを含めパラリンピック競技をより多くの方に知っていただける絶好の機会になりますので、ぜひ結果を出して期待に応えたいと思っています。
 団体スポーツでは、選手の一人でもコロナ感染者が出てしまったらチームとして成り立たなくなってしまい、出場も危うくなる可能性があります。もし仮に、私が感染してしまったら、私のせいで選手たちが出場できなくなってしまい、一生それを背負って残りの人生を生きていかなくてはなりません。そのため、感染対策には皆で細心の注意を払っています。万全の感染対策を講じながら練習・合宿を重ね、大会準備をしっかりと行って、大会開催当日を迎えたいと思います。
 将来は、競技により特性があるので一概には言えませんが、パラスポーツを生涯スポーツに変えていく必要があるのではないかと思います。他の競技団体とも連携・協力しながら、パラスポーツ界全体で考えていく必要があると思っています。最近は、競技団体同士の横のつながりも出来てきていますが、より一層の連携を図っていきたいです。そういった中で、パラスポーツについて、障がいのある方もない方も共に一生涯のスポーツとして楽しめるような環境を整備していきたいと思っています。
 中でもシッティングバレーボールは、共生社会の縮図のようなスポーツということができ、そういった面からも将来性があるスポーツだと思っています。まさに一生涯のスポーツとなるよう、これからも尽力していきたいと思います。パラスポーツは、もともとリハビリの一環というイメージが強く、選手の層も薄く、携わっている人も決して多くはありません。これをどのように広げていくかを考えた時に、障がいのある方ない方、それぞれの力が必要となります。楽しそうに頑張って競技をしている姿を見ていただければ、多くの方が、みんなと一緒に頑張っていけるスポーツであると感じてくれると思います。
 東京2020大会が終わった後に、真価が問われてくると思います。私たちは、パラスポーツが生涯スポーツとなって、学校の授業や職場、地域などに広く浸透していくよう、これからもパラスポーツはみんなでできるスポーツ、一生涯のスポーツなんだということを伝えていかなければならないと思っています。


(写真提供 日本パラバレーボール協会

(令和3年3月 東京都オリンピック・パラリンピック準備局パラリンピック部調整課インタビュー)