パラスポーツ・パラアスリートの支え手の方々からのメッセージ ~パラ卓球~

 パラ卓球日本肢体不自由者卓球協会広報(立石アルファ裕一選手の弟)立石イオタ良二(たていしいおたりょうじ)さんに支え手としての役割、パラスポーツやパラアスリートの魅力などをお伺いしました。パラ卓球を支える方、競技、選手を知って、みんなで応援しましょう。

★パラ卓球
 立石イオタ良二(たていしいおたりょうじ)さん
 日本肢体不自由者卓球協会広報

 (立石アルファ裕一選手の弟)

<プロフィール>
元卓球選手、全日本卓球選手権ダブルス7位。家業の額縁屋(今年創業100年立石ガクブチ店)を継ぐため引退

仕事の傍ら、生まれつき障がいを持つ兄のコーチを務める。
2014年パラ世界選手権日本代表監督、2016年リオパラリンピック日本代表コーチを務める。
リオ後は協会内に広報部を立ち上げ、スポンサーセールス ・リブランディング、マーケティングプロジェクトに力を入れる。
パラ卓球を通しD&I(diversity& Inclusion)を発信、ユニバーサル社会の実現を目指す。

<前編はこちらから>
<後編はこちらから>


<前編>

パラ卓球の広報に携わることになったきっかけを教えてください。

 私自身、小学5年生から卓球をやっていました。きっかけは、兄(現パラ卓球 立石アルファ裕一選手)です。兄は小学4年生のクラブ活動で友達に誘われ卓球クラブに入りました。最初は運動系のクラブで嫌がっていました。しかし卓球の元国体選手であった母が「卓球には回転という面白い技があって、運動神経やパワーがなくても勝てるんだよ」と、簡単な回転をかけるサーブを教えたところ、2週間後、そのサーブで先輩に勝った!とニコニコして帰ってきました(母は結婚前、体育教師・卓球部顧問で生徒をインターハイに連れて行くなどしていました)。障がいのある自分が"スポーツ"で人に勝った、勝負ができたということが本当に嬉しかったようです。
 兄は小学校5年の時に自分の意思で叔父が経営する卓球クラブに入門、卓球に本格的のめり込んでいきました。入門してすぐに九州大会の予選があり、人数不足で団体戦のメンバーに選ばれました。チームは予選を勝ち抜き、九州大会に行くことになりました。大会では活躍することはできませんでしたが、父と列車で鹿児島まで行き、駅弁を買ってもらったとか、マンガを買ってもらったとか、温泉に入ったとか、思い出をたくさん持って帰ってきました。私は子供心に「卓球をすれば父と一緒に旅行に行けるんだ」と思いました(笑)。また、兄が卓球を習い始め、これまでいつも一緒に遊んでいたのにそれが少なくなり寂しいということもあり「僕もやる!」と。それが私の卓球を始めたきっかけです。その後は高校・大学と卓球で進学し、本気でオリンピックに出たいと思って毎日打ち込みました。
 大学卒業時、卓球の道を選ぶこともできましたが、家業(創業100年の額縁屋)を継ぐため卓球選手の道をあきらめることになりました。その後、兄に頼まれ兄の個人コーチを務めることになり、パラ卓球に関わることになりました。また、現役時代から親交のあった現日本肢体不自由者卓球協会の畠山会長からの依頼で、2014年世界選手権の日本代表の監督をさせていただき、2015年からは国際卓球連盟の主催する世界トーナメントに兄のコーチとして帯同しました。
 当時は、正式な監督やコーチが誰もいない中で、選手だけで海外遠征に行くことも多く、兄以外の選手からも一緒にベンチに入ってほしいと頼まれることが多々ありました。2016年リオパラリンピックでは、岩渕幸洋選手(東京2020パラリンピック出場内定)からの指名もあり、日本代表のコーチとして帯同することになりました。



  







(写真提供 日本肢体不自由者卓球協会)
 リオの会場には子供から大人まで沢山の人々が観戦していて、選手入場の時にはウェーブで盛り上げ、いいプレーには惜しみなくスタンディングオベーション。それを見てすごく感動して、パラリンピックの偉大さを経験しました。4年後の東京もこうであって欲しいと思いました。その期待とは裏腹に、強化体制や協会自体の組織がまだまだ整っていなかったので、この期待と現実とのギャップをどうにかしなければいけないと思いました。私のようにスポットでのサポートではなく、専任の監督やコーチがいて、国内合宿や海外遠征にも帯同し、一貫した強化体制を組めるような環境を作りたい、選手がベストの状態で試合に臨めるようにしたいと。
 そのためには、まずは協会の経済的成長が第一と考え、リオ帰国後すぐに広報部門を立ち上げました。スポンサー獲得をメインとしながら、同時に監督・コーチのリクルーティングなど、手探りでやれることをやっていきました。2017年から外部委託でコーチ契約、海外遠征にコーチが帯同できるようになり、世界選手権で銀メダルを獲得、翌2018年アジア選手権では初めて日本が団体戦で中国に勝って、金メダルを獲りました。アジア選手権では私もコーチを兼任し帯同していました。
 これまでの試合結果と広報活動によるスポンサーセールスが噛み合い、またアジア選手権での金メダル獲得による国からの強化費の増額も後押しし、専任の監督・コーチを契約し雇うことができました。その後、強化面は現場に任せ、更なる協会組織強化に取り組むため、私は広報一本に力を注げるようになりました。
 広報を務めるに当たり、オリパラ効果に頼らない、パラスポーツの本質的な価値を、社会にどう発信し共感を得ていけるか、そもそも応援してもらうのではなく対等なパートナーとして、ビジネス観点で価値を見出してもらうにはどうしたらよいかを考えながら取り組んでいます。メディア露出やパラ卓球を観ることができるイベント・大会の実施や、パラ卓球のリブランディングで、ホームページの刷新やキービジュアルの制作など、魅せ方にこだわり、より多くの人々に共感してもらえるような取組を実践しています。

パラ卓球の魅力を教えてください。

 選手たちは、私たちに無いものをいっぱい持っています。卓球のプレーでは、五体満足の我々の中ではフォアハンドはこう、バックハンドはこう、という"セオリー"があります。しかし彼らの個性(障がい)においてはそのセオリーがなかなか当てはめられない状況の中、彼らはその個性を生かし、私たちが考えもつかないような打法であったり、独創性あるプレイスタイルを創造し、自分だけの唯一無二のスタイルを確立し戦っています。選手たちが、自分の障がいを個性に変えて創意工夫しプレーしている姿を観てほしいと思います。
 また、試合ではガチンコでぶつかり合い、互いに障がいへの理解があるからこそ、互いのチャレンジに対しても理解し合えるのです。試合の時はまさに真剣勝負ですが、試合が終われば、お互いに称え合いリスペクトします。本当に清々しい、その瞬間の雰囲気も味わってもらえたらと思います。
  




















(写真提供 日本肢体不自由者卓球協会)

<後編>

選手との思い出のエピソードをお聞かせください。

 私自身、卓球の道で生きていくと決めて、ずっと卓球をやってきて、大学を卒業するときも様々な選択肢があった中で、家業を継ぐことになり、頭では理解しても心がついていかない状況、不完全燃焼の状況でした。
 そうした思いは常に心にありつつ、兄に帯同した海外遠征で見た一人の選手によって、そのネガティブマインドが一気にポジティブに変換されました。両腕のない選手が卓球をやっていたのです!!口でラケットをくわえていました。それがどれほど大変か、卓球をやっていた私にはよく解ります。彼のプレーを目の当たりにした時、感動でも哀れみでもない涙がこぼれ落ちました。彼の試合が終わって「あなたはなぜ卓球をやるのか(できるのか)」と話しかけると彼は、「Pingpong is my life」と。「列車事故で両腕を失くし、死のうと思うくらい落ち込んだけれども、やはりどうしても卓球を、あのラリーをもう一度やりたいと、そこから色々チャレンジして、口でラケットをくわえることにたどり着いて(歯が全部抜け落ちるくらい大変だったけど)、ラリーができるようになって。ふと気づいたら、周りに沢山仲間ができていた。そして奥さんまで。Pingpong is my life だろ?」と。
 それを聞いて、またどっと涙が溢れてきました。私には可能性しかない。それまでネガティブになりがちだった自分への甘えに気づかされ、奮い立たされました。また、最後までチャレンジできなかったと思っていたけど、(形は違えど)大好きな卓球の中に身を置いて大好きな兄のサポートをして一緒にパラリンピックを目指している、普通では経験できないような「卓球」にチャレンジできているんだ!ということにも気づき、不完全燃焼感が嘘のように払拭されていました。
 パラスポーツには、人の心を変えられる、勇気を持たせてくれるという、凄さ、素晴らしさ、面白さがあるんだと。彼との出会いにより身をもって体験させてもらいました。その経験が、現在の広報活動における大きな指標となっています。現在、大会後も見据えた広報展開を考える上で、共感があれば理解が深まり、ポジティブに向き合え、色々な価値を見い出していくことができるのではないかと確信しています。
 兄とのエピソードも少し。兄は高校卒業時、本当は大学に行って勉強と卓球を続けたかったようですが、私の知らないところで両親に「イオタの方が才能があるから、僕は大学に行かずに就職する。彼が行きたい大学に行かせてあげてくれ」と言ってくれていたそうです。就職してからは、寮生活の私に「ご飯食べてるか」とお小遣いを振り込んでくれたり、試合を見に来てくれたり、何か悩んだ時には相談に乗ってくれたり、私をすごく支えてくれました。だからこそ、家業を継いで色々な思いもあった中でも、兄からコーチをしてほしいと依頼された時には、全力で応援しようという気持ちになりました。そして今現在も、兄のおかげで、このような色々な世界を見ることができ、障がいのある選手たちの素晴らしさに触れることができています。本当、兄へのリスペクトがすごくありますし、感謝の思いでいっぱいです。




(写真提供 日本肢体不自由者卓球協会)

パラリンピック・パラスポーツへの思いをお聞かせください。

 パラリンピックで終わりでなく、その先につなげていくことが大事です。常にワクワクしてもらえるよう次につながるようなものを提供していく必要があります。そのためには、自分自身がワクワクしないと伝わらないと思っています。
 以前、「パラスポーツを観たことがありますか?」という街頭アンケートなどを行った際に、ほとんどの答えは「観たことがない」、そしてその理由は「何が(どこが)面白いのかが、わからない」でした。そもそも、まずはパラ卓球という競技を知っていただくこと、また、何が面白いか(観戦ポイント)、選手がどんなチャレンジをしているのか、を理解・共感してもらうことの重要性を感じました。そのために、パラ卓球選手が感じている世界を可視化し実感してもらえるような「カタチにとらわれない卓球台」(https://jptta.or.jp/para-pingpong-table/)を作り、多くの方々に共感してもらうためのプロジェクトをスタートしました。大型商業施設や公共施設での展示・体験イベントや、このパラ卓球台を小学校に持って行く教育プログラムも実施しています。
 この取組でとても嬉しかったのは、選手のチャレンジを体感できるこのパラ卓球台でプレーし、「パラ卓球選手のどこがすごいか」を感じた子供たちが、授業が終わった瞬間、選手に駆け寄り「ラケット見せて」「車いすどうなっているの」など、単純に選手に興味を持ち、選手をヒーローとして見つめている眼差しを目の当たりにできたことです。みんな選手とハイタッチして教室に帰っていきました。パラスポーツだからとか関係なく、共感が生まれて選手がヒーローになった瞬間です。このプロジェクトがボーダレスでユニバーサルな教育の第一歩、パラスポーツの価値を創っていけると確信しました。
 体験イベントだけではなく、リーフレットも制作しました。パラ卓球台体験で得られる、「選手たちが、どのような障がいがあって、どういうところにチャレンジして、どう創造してプレーをしているか」をまとめ、このリーフレット見れば観戦のポイント、拍手できるポイントも分かり、応援もしやすくなり、よりパラ卓球に興味を持ってもらえる内容です。このリーフレットは、東京パラリンピック競技開催地域の小中学校などで学級文庫として導入を開始しています。大会後も見据え、次の世代の子供たちにパラ卓球を知ってもらい、パラスポーツをより身近に感じてもらえるようにしていきたいと思っています。
 さらに、オリンピック選手とパラリンピック選手と共に病院を訪れ、障がいのある子供たちと卓球をし、スポーツの成功体験をしてもらい、スポーツという選択肢を提供するプロジェクトもスタートさせています。兄もそうでしたが、スポーツに出会うことで人生の選択肢が増え一歩前に踏み出すキッカケになれるように、また一生懸命になって練習する過程で仲間や社会とのコミュニケーションが増え、大会に出ることで世界が広がる、障がいという目に見えない壁を自分で打ち砕く自己実現のきっかけをどんどん増やしていけたらと思います。




(写真提供 日本肢体不自由者卓球協会)


(令和2年11月 東京都オリンピック・パラリンピック準備局パラリンピック部調整課インタビュー)